【日本遺産】飛騨匠の技・こころ 〈木とともに、今に引き継ぐ1300年〉
日本遺産を旅する 岐阜県【高山市】
■現在まで受け継がれた伝統工芸に触れる
飛騨春慶
木地の鮮やかさと琥珀(こはく)色の輝きは異なる匠の二人三脚によって生まれる
透き通る漆で映える木の持つ本来の魅力
飛騨春慶は、木地師(きじし)と塗師(ぬし)との二人三脚によって生み出される。
通説によると、慶長年間に神社仏閣の造営に携わっていた棟梁・高橋喜左衛門が、自ら割った椹(さわら)の木目に魅せられ、この板で蛤(はまぐり)の形の盆を作り領主の嫡男・金森重近(後の宗和)に献上した。重近は、その木目の美しさに感激し、御用塗師の成田三右衛門に漆を塗るように命じた。そこで三右衛門は、木地を活かすために、透漆(すきうるし)を塗り仕上げた。この蛤形の盆こそ、飛騨春慶の始まりという。
「木地師というのは加工だけでなく、良材を選ぶために丸太の選定からするんです。」
と話すのは木地師の西田恵一さん。春慶の木地とは、板物・曲物・挽物からなり、かつてはそれぞれに専門の木地師が手がけていた。
そして、木地師が加工した製品を塗師が、透漆で仕上げていく。「飛騨春慶の特徴は木地を活かすこと。同じ漆でも輪島とは違い、木目を見せることで春慶の魅力が引き立つんです。」
とは塗師の熊崎信行さん。この2つの匠が生み出す琥珀に輝く黄金色の飛騨春慶が、多くの人を惹きつけてやまない。
一位一刀彫
大胆かつ繊細な心を込めた彫がイチイの味を一層深める
世界に2つとない手彫りの妙技が活きる伝統工芸
飛騨春慶とは違い、一切の色彩を施さないのが一位一刀彫。
「自然が育んだ木の持つエネルギッシュな生命力を、木地を活かすことで再現した迫力こそ、〝飛騨匠〟が現世に伝え続ける伝統工芸なんですよ。」
と彫師の鈴木英之さん。
この一位一刀彫は1800年代前半に、松田亮長(すけなが)が独自の技法を完成させたことに始まるとされる。飛騨地方の木材の象徴ともいえるイチイ材を用い、彩色を施さないことで、木そのものの魅力をいかんなく引き出している。ぱっと見たときには大胆な、それでいて近くで見ると繊細な表情をしている作品は、彫師の巧みなノミ捌きによるもの。力強い男性的な表情と柔らかい女性的な優しさを併せ持つバランスこそ、匠が受け継いできた技なのだ。木そのものを活かしているために、年月が経つにつれ、木肌や木目の色艶が深くなり、更に大きな魅力となる。
彫師は制作するにあたって、何を彫るのか完成図のデッサンから始める。そして彫るものに応じた木目とサイズをもつ良質な木を選び、仕上げていく。このようにして木の持つ魅力が活かされているのだ。
飛騨の家具
古き時代より受け継がれた魂が現代に花開かせた新しい匠の道
伝統の技と西洋の技が融合し生まれた技法
西洋の家具技術と「飛騨匠」の伝統技法。この2つは、大正9年(1920)、2人の旅人が飛騨高山を訪れたことによって、出会った。それまで、飛騨匠の技は日本文化の中でのみ育まれ、技法を活かしてきたが、西洋の曲げ木技術を学んだ旅人が、飛騨を訪れた時に、この地に椅子を作るための西洋の技術を伝えた。
木を知り尽くしている職人たちは、この技術を取り入れたものを創るために、試行錯誤を始めた。和室で正座をする文化の日本人にとって、椅子の存在というものは驚きだったのだ。それから2年、春慶塗を施した椅子が世の中に送り出されることとなる。
高山市に本社を構える㈱飛騨産業は、現代の「飛騨匠」の中枢として、今でも伝統の継承と新しい技術のチャレンジを続けている。
板屋敏夫さん(飛騨産業)は「今でも全国から木工職人が飛騨にその技術を学ぶために訪れます。匠の伝統をこれからも伝えていきたいですね。」と抱負を話した。